袋小路に花は咲く

読書や映画の感想

性犯罪被害にあうということ 小林美佳

 

性犯罪被害にあうということ (朝日文庫)

性犯罪被害にあうということ (朝日文庫)

 

 

 

性犯罪被害者の心境をありのままに記したノンフィクション。性犯罪被害にあう人は報道されないだけで途轍もなく多いと聞く。なぜなら告白することができないから。そんな状況に一石を投じるべく、同じく性犯罪の被害にあった一般女性だった著者:小林美佳さんが本を書いた。

作中でも書かれているが、性犯罪被害について講演したのがきっかけでメディアに注目されてこの本が出版されることになった。レイプ被害に遭ったことを告白するのってある意味オナペット扱いされてしまう可能性があるというか、被害者の顔が出ているから被害に遭ったときの想像を万人にされる恐れがある。それって女性からしてみたらすごく気持ち悪い事だろうし、自分に触れあってくる人たちが全て自分に「性」を重ねてくるかもしれないって思うとそれこそ吐き気がすると思う。だけど、彼女はこの道を選んだ。吐き気が止まらなかった事件後の日々を考えると、矛盾が生じる。彼女にとっての被害の気持ちの整理は外に発信することだったのかもしれない。

 

津波という単語を被害の表現で使うことが多々見られたんだけど、ぼくはこの言葉はふさわしくないと思う。というか嫌悪感すら抱いた。津波と聞いてまず思い浮かぶのは東日本大震災。その後に書かれたなら慎重に選ばれた単語なのかもしれないけれど、津波は別に3.11以前にも至る所で発生した自然災害なのだから、当時震災があった、当時津波の被害が酷かった、というのはあまり関係のない話だし。ぼくが読んだのは文庫版なんだけど、文庫版が出たのは東日本大震災の後なんだから、校閲して津波という表現は差し替えてよかった気がする。

ここでも、羞恥心や世間体などの常識を気にする気持ちと、津波のように蘇ってくる感覚とのバランスが上手く取れず、どちらも優先することができなかったし、どちらも表現することが出来なかった。 

 「何度も押し寄せる」表現として、津波を使用したのだろうけど、津波である必要はないというか、津波だと意味合いが少し変わってきてしまう気がする。災害的な意味合いが加わる。大波とかではダメだったのかな。

そして、その2ページ後にもまた出てくる。

そんな引き金やきっかけなどなくても突然、それはやってくる。津波に呑み込まれるかのように、目覚めたとき・電車に乗っているとき・歩いているとき・トイレに行ったときーー 

 彼女は津波という言葉の語感が気に入ったのかもしれない。被害という点では同じなのかもしれないけれど、味わったことのない津波を比喩に使わないでほしい。ぼくはこの部分にしこりが残ってしまった。

彼女はその数ページ後に次のように綴る。

凶悪犯罪と自然災害。まったく性格を異にする二つの事柄をきっかけに同じ症状が出たとしても、そこには、大きな違いがあるように感じる。

なぜなら、自然災害は、誰もがその被害の内容を想像しやすく、周りの「理解」を得やすいから。

性犯罪の被害者は、どうだろう・・・・。

 理解を得やすいというならば、津波の被害者のことを考えて、津波という言葉を選ばないという配慮を出来なかったのはなぜなのか。その言葉選びには自然災害の被害者に対する理解が行き届いていないのではないか。彼女もまた傲慢ではないのかと思った。被害者だから、という言葉に甘えているだけのように思えた。

 

 

実際に文中でも被害に遭った後、わがままになった自覚があると綴られていたが、きっとそれは「性犯罪被害に遭ったから」という理由が本質ではないと思う。彼女の性質だと思う。性犯罪被害に遭う女性がそういう性質を持っているというわけではなく、彼女がこういった物書きをするのも津波という言葉を安易に使うのもわがままになるのも全て一本の通った線があるように思う。

 

解ってほしいんじゃなくて、分かろうとしてほしかった。 

 第4章の最後はこう締めくくられている。彼女が周りの優しさを分かろうとしていなかったのではないだろうか。元彼を頼っていたりするのは仕方ないことかもしれない。だけど、その先の暴言とかは性犯罪被害だからという言い訳は通用しないはず。二次被害PTSD?違うと思う、彼女の性格だ。ありのままに綴られているから余計にはっきりと彼女の輪郭が見えてきて、読んでいて辛くなった。

 

自分の感情を立て直すことで手一杯の彼女に現実的な意見を言うのはいけないことだったのか。親があまりにも身勝手なことを言う娘である彼女を勘当したところで、「性犯罪被害者とその家族には溝がある。」と一概には言ってはいけないと思うし、彼女のロールモデルは果たしてすべての被害者に浸透するとは思えない。彼女の性格がそのまま書籍化して顔出しして被害者として色々と喋ることに繋がっているのだから、あくまでも彼女の場合と注意書きが必要だと思う。彼女なりの性犯罪被害と向き合うことや逃げることが周りに自分の状況を告知することだったんだと思う。先述の「分かろうとしてもらいたい」という彼女の気持ちが、今こうしてぼくの手元に書籍としてあるんだと思う。

 

私がセックスに対して人よりも恐怖心が強いこと、敏感であることは話していた。事件のことも話した。話せばわかってもらえると思っていたから。(中略)

でも、彼は、数日後には私が「怖い」と訴えたことを忘れてしまう。セックスが始まればまた、口を押さえられたり、 玩具を使われたり…。

 こいつが後の夫となるんだから凄い。この人、頭おかしいんじゃないのか?って思う。この人は明らかに正常ではないと思うし、その異常な人を伴侶として選んでる彼女もまた正常ではないと思う。新しい彼は悪くない、そう思う彼女は間違っている。結果的に離婚してるし。まぁ、結果論なんですけど。

事件から二年後、私は、同居していた彼と結婚した。(中略)

事件が100のマイナスであるなら、100のプラスを作らなければ自分が保てなかった。そのためにできるだけ順調と思われることを、一つでも多く身に着けることに力を注いでいた。 (中略)

しかし、セックスについては、何も変わらず、嫌悪も解消されなかった。

 セックスについて問題が解決したのかな、と思った。けれど違った。外野であるぼくが何を言おうが外野であり続けることには変わりないので言わせてもらうと、彼女は結局のところ支えてくれる人がほかに居なかったのかなと。そういう性癖を持つ以外は素晴らしい人、と自分の中で折り合いをつけないといけなかったんだろう、他にそういった人が見当たらないから。この時点で彼女は真に護られている存在ではなかったんだと思う。少しでも心配してくれて、こんな自分と交際してくれる彼を手放すほどの余裕も後釜も無かった。だからこういう結果が生まれた。その結婚を後悔していないというのは感覚麻痺であり強がりだと思う。

 

あと、太字にする部分が多すぎて大切な部分、最も伝えたい部分がぼんやりしてしまっている気がする。

この本は教育学に携わる友人が性犯罪について詳しく勉強する必要があったらしく、その際に手に取って当事者の手記だったから参考になったとオススメされた本だったのが読むに至った経緯だ。でも、ぼくはそういった勉強をしていないから、ただ一読者として普通に読んだだけだけど、どうもスッと入ってこなかった。色々と言いたいことが沸いてくる本だった。だけど、その文句や意見はきっと「性犯罪被害者」になった彼女には決して直接届かない言葉だし、届いてはいけない言葉なのかもしれない。綺麗事のような戯言なのかもしれない。そういう意味で当たり前の言葉を制限なくぶつけることが出来ない点ではぼくら一般人と当事者である性犯罪被害者には「溝」があるのかもしれないと思った。(おしまい)