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袋小路に花は咲く

読書感想駄文

人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない 見城徹/藤田晋

 

人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない

人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない

 

 

長文のタイトルを冠した書籍が凄く好きで古本屋でタイトル買いしたのだけど、ケツから言って最高だった。

幻冬舎代表取締役社長・見城徹とサイバーエイジェント代表取締役社長・藤田晋の共著、というか文通のようなビジネスに関するコラム群。

見城が持論を展開したら、それについて藤田が自分の意見を言う、というのを繰り返していくスタイル。見城が先に原稿を完成させるため、見城の意見に藤田の持論について何かしら書かれていることはないのが少しもったいなく思える。見城が藤田に何か物申すコラムも見てみたかったりする。

個人的に見城と価値観がかなり似通ってる節が多くて、それを成功した人間という肩書を持っている見城が言うのだからぼくとしては少し嬉しい。自分の考え方が認められないことを不安視したりするとき、既に成功したロールモデルがいると安心感を覚えられる。

しかしながら安心感を抱いてはいけないのだ。見城は一貫して歩み続けることを提唱している。現状維持をしてはいけない。常に自分を戒めなければならない、と。

これらのことは誰しもが思うことかもしれないが、実行するのはとても難しい。そして何を以って成長しているかという判断基準も人によって違うのだから、なおさら判断が難しい。しかし文中の彼らの言葉を借りるのならば死ぬときには自分が人生を評価するのだから、何も戸惑う必要はないのかもしれない。

ビジネス書という立ち位置かもしれないが、藤田の言うとおりビジネスについて多くを語るとき、それは人生にも通じていくのだから人生論のような内容になってしまっていても致し方ないのだろう。本当にその通りだと思う。仕事論というより人生論を読まされている気分になった。

彼らの言う言葉は現実に彼らが24時間365日継続していることではないのかもしれない。誰だってそうだろう。しかし、短い期間でも出来たならば自信を持って筆を執ることが出来る。それが無意識なのか意識的なのかは判らないからこそ、書いてあることすべてを信じてはいけないと思う。藤田は自分の事を客観視できるよう心掛けているとはいうが、どんなに頑張っても人間である以上完璧などは無いと思っている。

それでも彼らの人生論は読むに値する。ぼくの場合は自分と整合性がかなり高かったから少し肩入れしてしまっている感想かもしれないが、是非とも読んでもらいたい。

見城徹という人間が他人に思えないのが今回の主たる成果だった。彼の愛読する吉本隆明の詩集を探してみようと思った。っていうか、もうアマゾンで購入した。

本書は200ページを超えるが、内容が被っている箇所がかなり見受けられる。それだけ根っこの部分に触れているということだろう。ぼくも言うことが被ることが多い。だけど、それらは大事な部分だから必然的に被ってしまうもの。そういう文章を書いてしまう見城に親近感を覚えてしまうのだ。

 

最後に本文で気になった部分を引用して締めとしたい。

でも、それでは講演にならないので、僕は成功の“秘訣”をいろいろ話す。そして、話し終えると、自己嫌悪でいっぱいになる。(中略) 第一“秘訣”という言葉自体が、小手先の感じがする。

 成功の秘訣とか掟とか、この類の言葉を掲げた自己啓発本とかが書店に並んでいるのがすごく嫌いだ。そんなの勝者の意見であって万人に通ずるかどうかなんて検証していないのにドヤ顔で話す成功した面々が嫌いだ。物事には必ず原因と結果、そしてそれらには必ず環境が起因してくる。それを踏まえたうえで自分の現状に投影できる人は読む価値があると思うが、そういった頭の良い人たちは皆読まずとも成功することは決まりきっているようにも思える。買う人は成功できず買わない人が成功できる状態になる、矛盾を抱えた書籍を売るということは搾取ということ他ならないとぼくは思う。搾取されるようになってしまっては中々抜け出すことが出来ないから、秘訣本は全て発禁にして燃やしてしまえばいいよね(暴論)

相手が感想をしっかりと伝えてくれた時、僕は「この人とは付き合えるな」とか、「大事にしよう」と思う。それがモチベーションになり、次の仕事へつながるのだ。感想は、それを言うこと自体に大きな意味がある。

ぼくにとって「自分の言動について相手がどう感じたか」というのは常に不安の種となる。それをしっかり伝えてくれる人というのは同様の感情を少なからず持ち合わせているということではないだろうか。だからこそ、相手伝えておかなくてはいけないと思い、表現してくれる。感覚的な部分が似ているというだけで付き合うに値するのかもしれないが、それではまだ弱い。それを形にして伝えてくれるということはその人の優しさだと思う。そんな人で周囲を埋め尽くしていきたい。

どんなにいい仕事をしているつもりでも、一緒に楽しく食事をした人には勝てない。(中略)少なくとも同じレベルの競争相手だと、いい食事をしている人には敵いません。 

 人間はコミュニケーションが重要な社会性動物だと思う。食事を楽しくできるということは大きなアドバンテージだろうし、楽しませられる能力、楽しめる能力がお互い備わっていなければならない。エンターテイナーになれる人は強い。そういう人になりたいから学生時代から色々なタイプの人と沢山食事の機会を設けている自分が確かにここにいる。仕事関連で楽しく食事できる才能がとてつもなく欲しい。

仕事や恋愛は見返りを期待せず、圧倒的努力をすれば、その結果、時として実りがある。しかし、友情は常に「与えるー与えられる」の関係があってこそ成り立つ。それが切磋琢磨ということであり、お互いを成長させるのだ。

 友情について、激しく同意する。何も与えることが出来なければ申し訳が立たない。そこに友情は成立しないのではないだろうか。立つ場所が違ったのだと去るほか無い気がする。すべての人間と等しく友好度を築くことが出来ないように、自分が与えることが出来る人、与えてもらうことが出来る人、という存在がそのまま友人になっているはずだ。ぼくの憧れの人にぼくが何も影響力を持たなければその人とは上手くいかない片思いのままだろうし、同様にぼくが憧れていても相手から得るものが無ければウザったい存在に成り果ててしまうだろう。少しでも「与えるー与えられる」があれば問題がないのだからバランスや量に特段注意する必要はないけれど、0と1の間にはとてつもなく大きな壁が存在するということをしっかりと覚えておかなければならないと思う。今いる友人はもしかしたらこの先友人ではなくなるかもしれないのだから。

特に大嫌いなのは、印刷された出来合いの年賀状だ。「こんなもの、くれなくていいよ」と思う。もらっても、うれしくも何ともない。せめて一行ぐらい、自筆で何か加えてくれればいいものを。(中略)

決まり事のように、ほどほどのものを贈るのはいかがなものか。あの人にはこれが似合うと思ったものに出会った時々に、贈ったほうがたとえ安い物でもよほど心がこもっている。

 ちなみに幻冬舎は、お中元もお歳暮も贈らない。日常の日々の中で誠意を尽くしていれば、そんなものは必要ないと思っているからだ。

 悪しき慣習とでも言うのだろうか。いや、悪しきとまではいかないか。しかしながら形骸化してしまっては意味がない。各社は贈ることに意味があるような宣伝をするのだから物を贈ればそれを気持ちの代わりに出来るような錯覚に陥る。

その人を個人としてしっかり焦点を合わせてみることは素晴らしいことの一つだと思う。すごく労力のいることだ。その人をしっかりと見なければならない。中途半端では的外れな結果になってしまうからだ。それを付き合っているすべての人に行うのは難しい。どうすればいいか。ぼくは自分の大切にしたいと思える人(自然発生するものだが)、大切にしたいと思われているような振る舞いをしてくれる人を選べばいいと思う。一言添えてくれるひとはこの両方を満たしていると思う。年賀状やお中元を贈らないといった極端な行動は起こさなくても、それに代わってしっかり誠意を見せてくれる人は大切にした方がいいはずだ。

  「情けあるなら、今宵駆け付けてくれ。同志として一緒に事を成そう。この辛い今こそ、君が必要なんだ。明日の朝にだったら、何人かは来るだろう。しかし、明日の朝では、もう遅いんだ。来てくれても嬉しくもなんともない。本当の同志として、俺は認めないよ」

 本当に辛いときに一緒に居てほしいように、相手が求めてきたときにしっかりと応えられるような人になりたい。その人の一番でありたい。それを周囲の人全てに当てはめることは強欲で傲慢かもしれないけれど、そういった気持ちは忘れずにいたい。

 売れたものは、リスペクトしなければダメだ。ヒットしたもの、ブームになったものはすべて正しいと思っていなければ、本当の意味でビジネスに向かっていくことはできない。 

 どんなにちんけでくだらないものでもそれがヒットしたものであれば認めるしかない。ヒットの前ではどんな否定的な意見も負け犬の遠吠えでしかない。それらがなぜ売れたのか、考える頭に回すべきだ。そしてそれを自分の血肉に変える力がある人は強いと思う。

八名を、皆が議論に参加できる最大限の人数だと考えているからです。 

 パーティなどに顔を出すと、全員と話すことが出来た記憶があまりない。一人一人と話すことが出来た実感が沸くのは7~8名までだと経験則的に感じている。会議は参加者の意見交換会だ。参加している人誰でも聞き逃しや意志の確認が取れない状況は良い環境とは言えない。作業になってはいけない。常に考えていなければならない。それは自分だけではなく、同じ会社に属す全てに強要しなくてはならないことだと思う。そのために考えることを停止できる環境は改善していかなければならない。サイバーエージェントのこの考え方に基づいた会議は好感が持てる。

 講演を聞いて、自分の人生を変えようと思うなど、他力本願もはなはだしい。人生とは、打ちのめされたり、圧倒的努力をして戦ったりして、障壁を乗り越えてゆくものだ。人の話から何かを得よう、ビジネスに役立てようという考え自体が、安易なのである。

人の話から得てることが何もないかといえばそれはきっと間違いであると思うけれど、講演会で得ようとするのはやり方を間違えているとぼくも感じる。講演会なんてはっきり言って自己陶酔の自慢話発表会だ。何が悲しくてそんなものを聞かなければならないんだ。講演会に参加するということはその人を評価する側に立つことが出来ない、その人よりも格が下だと自認することに同義だ。恥ずかしくないのだろうか。講演会など高校時代に母校の先輩が意気揚々と話していたのを記憶しているが、何も響かなかった。つまりは肌に合わなかっただけなのだが、ぼくも見城と同じく講演会は悪だと思う。

誰もが賛同するアイディアは、意外なほど使いものにならないことが多い。皆がいいと感じるものは二番煎じやほかの成功例の真似になりやすく、そういったものは実現しても、結局ネット上に無数にある競合と差別化できません。 

 本当にその通りだと思う。経営戦略でブルーオーシャン戦略という考え方があって、それとも微妙に重なったりする話だけど、金脈というものは馬鹿にされても掘り続けた鉱夫だけが見つけられるのだと思う。それは失敗するよ、と諭されても失敗した例がないのならばやるべきだと思う。たとえそれで失敗したとしても、そのプロセスは何にも変えることはできないものとなるはず。

 

この本は、前作「憂鬱でなければ、仕事じゃない」に続く第二弾だったので、前作も是非とも読んでみたい。本当におすすめなので、というか、ぼくが見城徹と感覚的にすごく似ているのでぼくを知りたいという人にも見城徹の持論を読んでもらいたい。ここまで長文読んでいただきありがとうございました。(おしまい)