袋小路に花は咲く

読書や映画の感想

ジュージュー よしもとばなな

こんな商店街に住みたい。

ジュージュー (文春文庫)

ジュージュー (文春文庫)

 

 

 前置きとして、話は少し変わるのだけど、「それでも町は廻っている」(通称:それ町)という漫画が昨年の12月に連載終了して、つい先日最終16巻が刊行された。一つの町を舞台に主人公たちが物語を織りなしていく感じが凄く好きで、ぼくも下町や商店街の人情というものに大きな憧れを抱いている。そんな世界観の大好きな作品がまた一つ終わってしまって、まず読み直したくなるのがこの「ジュージュー」という小説だ。

 

 

ぼくが「ジュージュー」に対する印象は大きく分けて3つある。愛情・人情・ハンバーグの3つ。「○情」という単語でしっかりと統一感を出しておきたいところだけどハンバーグという単語だけはどうしても外せないから少し不恰好だけど許してほしい。

「愛情」は親から子への愛、人間同士の愛が多く描かれているから。「人情」は商店街の人たちの温かさ、距離感。「ハンバーグ」はこの作品を読んで久しぶりにハンバーグが食べたくなるから。

よしもとばななの悲しい話は美しいと思う。この作品も主人公・美津子の母親が亡くなるところから始まる。当たり前の日常の大切さに気付く人間の心情描写がとても上手で「この言葉がどうして心に響くのだろう?」と疑問に思ってしまうような文章がよく出てくる。

流産してしまったことで今までの関係ではいられなくなった美津子と進一のくだりは少し重いようで目をそむけてはいけないと思うし、しっかりと向き合って乗り越えなくてはいけないことだと思う。流産、登場人物の死、そしてハンバーグの元となる牛の死。たくさんの命が失われていくこの話は重いはずなのに重さをあまり感じさせない。鬱屈しているだけではいけない、と戒める風に喋りかけてくる彼女の作品が好きだ。自分がふさぎ込んでいるときに読みたくなる。

読書をする上で読み返すことをよく思わない人がいる。時間の無駄とか思われるかもしれないけど、彼女の作品はむしろ読み返してほしいと思う。読み返す必要がある作家とそうではない作家がこの世には必ず存在するというのがぼくの持論だ。よしもとばななは確実に前者に属す。読むときの自分自身の心境で変わってくる作品を彼女は描く。

作中に登場する実在の漫画「地獄のサラミちゃん」を恥ずかしながら知らなかったので読んでみたい。美津子の母親が大事にしていた理由が知りたい。どんな作品なのか気になる。いずれ読もうと思う。

最後に印象的だった文章を引用しておく。どこかは伏せておくから自分で読んで確かめてほしい。

 

肉や油を扱うというのは、きれいごとではない。体中が匂うし、べたべたするし、目や足腰がいつでも痛いし、だるい。たくさんの風にさらされないと、疲れが抜けていかない。そのことにやっと気づいたのも最近だった。それまではママの出す光に守られていたし、ママが死んでからは店を回すので無我夢中だったから。

 いるべき人がいなくなると、必ずどこかでそれに気づかされる。それが悲しいのだけど、自分の心が整理できた証でもあるんだよね。

ほんとうに不思議なことだけれど、この不思議は肉を食べない的なことで簡単に解決をつけられないという気が、あくまで個人的にではあるけれど、いつでもする。このシステムの中で生まれてきた私たちが、食べることでしてあげてることがきっとなにかある。 

 肉を食べる、それが死を取り扱うことであるから忌み嫌うのではなく、そういう仕組みの下で生活する必要があるという事は何か意味が必ずあるんだとぼくも信じている。

弱っているときにしか見えないものがある。

調子のいいときには飛ばしてしまっている、見たくないようなちっぽけなことが、弱っているときには壁のしみみたいにじわっと浮かび上がってくる。

そんなとき自分が宇宙の中に浮いているような心細い気持ちになるけれど、そこで見たそんな小さな花のようなものの鮮やかな色は常に心に残る。 

 弱っているときにしか見えないものがある。すごくわかる。それは常に心に残っているし、それは消したくないものたちになっている。大切にしなくちゃいけないものたちだ。

なんで、同じ人間なのにいる場所が違うのかな、すぐとなりにいるのに。

私はステーキ屋の娘でいることも学歴が粗末なことも一回も恥じたことはないけれど、違うということが少しだけ心にしみてきた。これが恋なんだなと思った。違うから好きになるのに、違うから届かない。 

 みんな違って、みんないい とは言うけれど、その違いを埋めることが出来ないときそれは良さなのか悪さなのかわからなくなる。

私たちはほんとうは妬みあって、足を引っ張りあって、相手の命を食い尽くして、生き延びていく存在なのかもしれない。でも、それだけではないものに賭けている人たちだって、ほんの少しだけどいるのだ。 

 本当かどうかはその人が決める。嫌らしいものだとしても、そうではないほんの少しの少数にぼくはなることができるのかな。そういう風になれたらいいとは日々思う。

人間が牛の魂を知らないように、人間の力を食べるものたちは、決してその奇跡を手に入れることはない。尊厳につつまれた奇跡の力、最後のきらめき。

人間が肉を食べて牛から得ようとしている力を、食べることではほんとうには手に入れてないのと同じように。

牛の中にあるほんとうのきらめき、命のエッセンスは、死んだ肉からは消えている。しかしそのかすかな力の匂いだけでも得たいから、人間は肉を食べるのだ。 

 この文章が一番「ジュージュー」の中で好きだ。噛みしめたい文章。美しいと思う。

 

解決しなくても、行き場がなくても、環境が自分に優しくなくても、ひたむきに生きることはできる。生きるために他の生き物の命を奪っていたり、他の人の幸せを奪っていたりするかもしれない。しかし、生きているということがそういう意味なら、それしかできることがないなら、少しでも誠意をもってやりつづけるしかない。 

 最後に文庫版あとがきから引用。読者のみなさんが触れる形態によっては文庫版あとがきを読むことがないかもしれないので、どこにあるかネタバレさせていただく。

医者の友達が生命の倫理観についてよく悩んでいた。命に対する考え方はみんなそれぞれ持っているし、持つべきだと思う。他人に諭されて簡単に変わってしまうようなものではいけないと思う。だけど、誰かの意見でいいと思った部分を吸収するのは悪いことではないとは思う。もし命について悩んでいる人がいたら、この文章を贈りたい。

 

よく考えてみたら、このブログは作品紹介ブログじゃなくてその本を実際に読んだ人に向けている読書感想ブログであるわけで、「自分で読んで確かめてほしい」というのは「読み返す」ということになるんだよね。是非とも読み返して確かめてほしい。(おしまい)